年間の主日 1〜12 C 年 グイノ・ジェラールの説教
2013
年間の主日
2から12まで
年間第2主日
年間第3主日
年間第4主日
年間第5主日
年間第10主日
年間第11主日
年間第12主日
年間第2主日C年 2013年1月20日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ62,1-5 1コリント12,4-11 ヨハネ2,1-11
今日の福音は素朴なものについて語っています。 それは水、ぶどう酒、食事と愛についてです。 先ず、福音はユダヤ人の清めの為に使われていた6つの水がめについて語ります。 勿論、水は自分の体を洗うため、またリフレッシュするために利用されています。 更に、人は水をゆっくり味わい、自分が飲んでいる水を他の国の水と比較する事も出来ます。 昔、アッシジの聖フランシスコは「姉妹の水は 清くて美しいです」と歌っていました。
「ぶどう酒は人の心を喜ばせます」(詩篇114,5)と聖書が教えています。 フランス人にとってぶどう酒は普通の飲み物であり、それは日本人にとってお茶が普通の飲み物であるのと同じです。 ぶどう酒を非常に好むワイン通たちにとって、ぶどう酒はみな世渡りの方法で、それは生き方の一つの芸術です。 ワイン通たちはぶどう酒を楽しみながら賞味し、ゆっくり味わったり、長く保存したり、さらには収集したりすることさえもします。 聖パウロは自分の友達が元気で活動する様に、度々ぶどう酒を飲むように勧めています(1テモテ5,23)。
生き続けるために、食事は極めて重要なものです。 食べるために時間が必要であり、そして体に合う食品を食べる必要があります。 食事はいつも人々と分かち合う喜びの場です。 特に、テレビや携帯電話を消して、家族や友達と一緒に食事のテーブルを囲む事は本当の幸せを味あわせます。
人間の愛は、ただ身体的な面だけに限られていません。 他の人々と交わるために、愛は確かに一つの言語です。 キリスト者にとっては、人間の愛はいつも神の愛の印です。 なぜなら“神は愛”そのものだからです。 そして人間を創造された時から、男性と女性の違いによって神は彼らの一致を望んでいるからです。 確かに、人間の愛が完成、忠実、赦しの泉となるように、神は永久に決定しました。
しかし、今話した水やブドウ酒などの日常生活のありきたりなものが、私たちに違った見方を発見させます。 水は私たちが受けた洗礼を、ぶどう酒は私たちの為に流されたキリストの御血を思い起こさせます。 食事はミサの集い、そして愛は神の限りない愛を私たちに表しています。 カナの結婚式の出来事を通して、私たち自身が喜びのうちに人々を清めてリフレッシュさせる泉の水のようになるようにと、 イエスは私たちを招きます。 そして、私たちが祝いの雰囲気と幸せを与える新しいぶどう酒になるようと、イエスは強く望んでいます。 更に、私たち自身の人生の豊かさを他の人と分かち合うことによって、誰でも一緒にいる楽しさを深く感じるように、そして私たちの生き方は、宴会のような食事をするようにイエスは私たちに要求します。 最後に神と隣人に示されている愛が、私たちの内にも周りにも自然に光輝くようにとイエスは希望しています。 この世界が神の救いの計画に益々与るように、この世界がもっともっと美しくなるように、私たちはキリストに協力しなければなりません。
第一朗読を通して、預言者イザヤは「喜びを衣として着るように」と私たちを招きます。 「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされます」(イザヤ62,5) イエスの母マリアは、ぶどう酒が足りない事に気が付いて心配しています。 ぶどう酒がなければ、結婚式のお客様の喜びが消えるとマリアは分かっているからです。 さて、私たちに喜びを与え、私たちの一致を望まれる神からいただいている聖霊の様々の賜物について使徒パウロは語ります。 「賜物にはいろいろありますが それをお与えになるのは同じ霊です」(1コリント12,4) この霊的な賜物がなければ神の愛を示すことや 私たちを生かしている信仰の喜びを表すことも、とても難しくなります。
カナの結婚式の時にイエスは、ご自分の栄光を現されます。 そこで弟子たちはイエスを信じました。 私たちの人生を照らすキリストの愛は、カナの結婚式のぶどう酒のように、どこから来るのかは、人には中々分からない当惑させるものです。 私たちは皆、様々なカリスマを持っています。 この霊的な賜物が皆の役に立つように、私たちは聖マリアのように注意深くならなければなりません。 イエスが既に私たちの欠点、限界、過ち、罪を背負っているので、私たちは何も恐れる事はありません。 キリストの愛が私たちの物事すべてを変化させる力を持っています。 キリストの愛が私たちの人生の辛さの水を、永遠の喜びの極めて美味しいぶどう酒へと変化させることが出来ます。 神は、どのようにすれば私たちをご自分の喜びで包む事が出来るかをよくご存知です。
この信仰年に当たって、生きた水の泉、新しいぶどう酒、喜びの食事、赦しと忠実さに燃える愛を私たちの内に探し求め、掘り出しましょう。 自分の内にあるもっと良いものを取り出して、皆の奉仕と利益のために使いましょう。 特に他人と自分の内にある聖霊のささやきに注意深く耳を傾けましょう。 そうすれば「イエスが何かささやかれたら」私たちはその通りにする事が出来るでしょう。アーメン
年間第3主日C年 2013年1月27日 グイノ・ジェラール神父
ネへミヤ8,1-10 1コリント12,12-30 ルカ1,1-4、4,14-21
キリスト教一致祈祷週間は、聖書の喜びの週間です。 キリスト者の間にある分裂は、聖書の間違った読み方と誤った解釈から生まれました。 しかし、神の言葉の朗読は、聖霊がキリスト者の一致を実現することを可能とします。 聖書について話すならば、私たちの信仰の先輩であるユダヤ人のことを無視することは出来ません。 イスラエルの民の人々は、モーゼの時代まで世代から世代へ、父親から息子へ忠実に口伝えで神のみ言葉を伝えようとしました。イスラエルの民は神のみ言葉の民であり、ある意味で記憶力の民です。
それから預言者たちは神の代弁者として、神の民の運命を深く刻んだ出来事から意味を取り出しながら、様々のテキストを書き始めました。 追放されたイスラエルの民は、他の国の人々と混ざりあった雑多な状態に置かれていたので、前の世代から口伝えで伝えられた記憶力の宝を失う危険性がありました。 そのような時に律法学者が現れました。神が昔から言われたことを次の世代に伝え続けるために、彼らは伝統的な物事を書き記し始めました。 この律法学者たちの中で最も有名なのは、エズラでした。 彼のお蔭で、初めて、まとめられた本として聖書を出版しました。 エズラと他の律法学者たちは、口伝えと伝統的な物事を集めようとしているだけではなく、聖霊の息吹を受けながら新しい典礼を創造しました。祈り、朗読、説教と讃美歌を通して、イスラエルの民が神の現存に対して注意深くなるように律法学者たちは非常に努力していました。
出エジプトの時から長い歴史を超えて70年間の追放の後で、イスラエルの民は段々とヘブライ語を忘れました。 律法学者たちはアラム語と言う庶民的な言葉で聖書の話を書き記します。 同時に最初の会堂が現れ、そこで人々は聖書の朗読をし、黙想をし、説明をし、更に聖書と共に祈ることも学びます。 現代、み言葉の祭儀と呼ばれているものは、ここから直接に出てきました。そしてそれは、ご自分の民イスラエルと共に神が結んだ最初の契約に対する忠実さのしるしです。 このように私たちの典礼は、この最初の契約と十字架上で流されたキリストの血によって結ばれた新しい契約を土台としているのです。
書かれた福音の始めから ルカは真理を正しく伝えようとする歴史家として現れます。 しかし、今日の典礼は彼の福音の3つの章にまたがって、急に私たちをナザレの会堂に入らせようとします。 昔、律法学者エズラがしたように、集まっている人々の間にある教壇にのぼってから、イエスは大声でイザヤの書の箇所を朗読します。 イスラエルの民を教えているファリザイ派の人々や律法学者の人々のように、朗読が終わってからイエスは座ります。 読んだばかりの朗読を説明する前に、イエスは深い沈黙を作ります。 そこでイエスは皆が今聞いた言葉は思い出の言葉ではなく、昔の言葉でもなく、この言葉が生きている言葉、すなわち言われていることをすぐ実現するのでこの言葉は効果的であることを断言します。
イエスにとって神の言葉は、過去のものではなく現在に属しているものです。 イエスこそが神の言葉です。 イエスの全てが神について語っているのです。同じように全ての説教は、私たちが神と直接に繋がることを目的としています。 読まれて説明された聖書のテキストの意味を理解することによって、キリスト者は自分のうちにこの言葉が豊かな実を結ぶように聖霊の働きかけを可能とします。 ミサ祭儀毎に私たちは神の言葉を聞くので、ミサは私たちにとって信仰を新たにし、深める泉でなければなりません。 各ミサは、特に私たちを救い、聖化する神との喜ばしい本当の出会いでなければなりません。
キリスト者の一致祈祷週間に当たって聖書を再発見しましょう。 聖書の言葉を通して私たちに語られる、生きておられる神の現存を発見するように学びましょう。 そして、永遠の喜びと命の泉である神の言葉によって自分を充分養いましょう。 アーメン。
年間第4主日C年 2013年2月3日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ1,4-5 17-19 1コリント12,31-13,13 ルカ4,21-30
神の愛の証人となることは簡単な事ではありません。 非常に憎まれて、迫害された預言者エレミヤ、使徒パウロ、イエスは このことについて証しすることが出来ます。 お母さんの胎内から、或いは青春期から、または大人になってから「神の愛の証人」となるために選ばれた人は、遅かれ早かれ人々の反抗、不信、無理解と出会うでしょう。 与えた証しのせいで、エレミヤは憎まれた状態で追放されました。 イエスは十字架につけられました。 そしてパウロは首をはねられました。 しかし自分たちを選んだ神を支えとした彼らは、委ねられた使命に対して終わりまで忠実でした。
信仰年に当たり何世紀にも渡って「信仰の証し人が」私たちに伝えようとした事を私たちが、 再発見するように招かれています。 同時に、いつかキリストの後に従い、私たちの信仰を分かち合おうとしている人々にも、私たちは未来の門を開けなければなりません。 神の証人となる為に選ばれた人は、特別に恵まれていると思われるかも知れません。 確かに、彼らは自分の使命を果たすために特別な恵みを受けています。 しかし、選ばれた人は生涯に渡って他のキリスト者と同じように忠実であるように絶えず自分自身を捨てながら、瞬間毎に生き方の模範としてイエスを選ばなければなりません。 イエスに倣おうとしている人は、信仰、希望、愛の内に成長しながら、神のみ旨を行っている確信をもっています。
「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とイエスは断言しました。 自分の小教区を生かそうとしている勇気のあるキリスト者は、キリストが言われた事がよく分かります。 必要な変化を実現するために、すべての人を満足させることは到底無理です。 そのために私たちは共同体の中で、互いの愛と希望に正しい場所を与えなければなりません。 皆さんも感じていると思いますが、詰まらない事である人が怒ったり、他の人が教会の責任を無視して仕事を途中で辞めたり、或いは共同体から離れたりします。ご存じのようにナザレの人が、新しい息吹をもたらしたイエスを殺そうとしました。 神に感謝、キリストの時代から比べると今のキリスト者たちは、ほんの少し進歩しました。 確かに、問題があったとしても、今まで私たちの共同体の中で殺された人は誰もいませんから。
今日の朗読が注ぐ光によって、自分の振る舞いについて反省すればよいと思います。 何故なら私たちは、あっという間に人を裁き、彼らの言葉に偏見を持って直ぐ敵対する傾きがありますから。 私たちの態度と眼差しは、人々を麻痺の状態に置かれているので、私たちは他者の事を直ぐに裁きます。 その結果、兄弟姉妹の中にある神の呼びかけと聖霊のひらめきや着想を、もはや見分ける事が出来ません。 私たちは往々にして人の言う事を聞く前に、既にその内容を心で厳しく非難しているのではないでしょうか。 そのせいで私たちは、人の内にある神の神秘を無視しています。 復活の日から私たちの信仰と希望を持っている人や持っていない人によって、神が私たちに語っています。
ナザレの人々のように私たちは感嘆から驚きへ、そして驚きから拒絶へと簡単に移りがちです。他の人との理解や見方の違いを尊敬しながら、ありのままにその人を受け入れる事はとても難しいことです。 まして、私たちを囲んでいる人の中に、神の「愛する兄弟姉妹」を認めるのは至難の業です。 しかし、神はそれを私たちに要求しているのです。 神はいつも私たちが行きたくない所へ行かせ、避けたいことをさせるのです(ヨハネ21,18)。 私たちが回心し、永遠の幸せを早めに味わうように 、私たちが避けている人々こそ、神はわざと私たちを彼らに引き寄せたいのです。
使徒パウロはそれを「キリストの神秘」と言っています。 信仰によってキリストと共に一つの体になるために、私たちはイエスと結ばれました。 私たち一人ひとりは、この体のすべての部分のために役に立つように重大な使命を受けています。 信仰年の間に、お互い同士歓迎しながら、神が私たち一人ひとりの内に置かれた豊かさを発見するように努力して、分かち合いましょう。そうすれば、兄弟姉妹の中にある神の呼びかけと聖霊のひらめきや着想を、はっきりと見分ける事が出来るに違いありません。 アーメン。
年間第5主日 C年 2013年2月10日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ6,1-2、3-8 1コリント15,1-11 ルカ5,1-11
「私は神を見た」と、イザヤとパウロとペトロが代わるがわる証ししています。 それは神が思いがけないやり方で自分の人生の中に侵入したことを表すためです。 ご自分を啓示するために神ははっきりした場所がありませんので、人々を直接に迎えます。 神は一本の木、燃える柴、一艘の船、神殿の境内、道など何でも利用して、神は選んだ人を彼らが普通の仕事をしているうちに呼びかけます。
ご自分を啓示する時に、神は選ばれた人に信仰の賜物を与えます。 信仰は神の内にある神秘の光と共に人間の内にある暗闇の神秘を表わします。 しかし、人が絶望しないように、信仰はすぐ希望と赦しの恵みを呼び起こします。 このようにイザヤは玉座に座っている王として神を仰ぎ見た途端、直ぐに自分が罪びとであることを告白します。 イザヤは自分を選んだ神のイニシアティブと同時にそれに応える自分の無力をも認めます。神の預言者となるためにイザヤは火によって清められることが必要でした。 イザヤの体験は昔燃える柴の前にひれ伏していたモーゼと同じ体験です。 ペトロは不思議な漁を通して神の現存を見分けます。 彼の反応はイエスの聖性の前に自分の相応しくない状態を認める信仰の叫びです。 自分が罪びとだと認めた事のお陰でペトロは使命を受けます。 これからは自分の漁師の網でペトロは人間をすくい上げるでしょう。 キリスト者を迫害して自分の周りに死をまき散らしているうちに、パウロは神に捕らわれています。 回心した罪びととして、復活したキリストの証人となったパウロが、至る所で神の赦しと命の勝利を宣べ伝えます。
イザヤもペトロもパウロも自分を選んだ神に対する揺るぎない信頼を示しながら、遅れずに自分に委ねられた使命を果たし始めます。 信頼は信仰のセメントです。つまり信頼は信仰を強くし、揺るぎないものとします。 神への信頼なしには、自分の信仰を証しすることは非常に難しいです。 私たちは皆罪びとですから、限りなく赦す神の内に私たちの信頼を置かなければなりません。 確かに、神の赦しから私たちがキリストの弟子であることを証しするために力と勇気を受け取ります。
神と私たちの間に、神だけが越えることが出来る深い淵があります。 神は聖なる方であり、私たちは罪びとです。 神が私たちに近寄るために、神はイエスを罪となさいました(2コリント5,21)とパウロは断言します。 キリストの死と復活によって、私たちは赦されることのできる罪びととなりました。 キリストは元気な人のためではなく、むしろ病人と罪びとのために来ました。 私たちの日常生活の中にイエスを歓迎することによって、私たち自身を貧しい人や病人や罪びとの数に加えて一致することです。 たぶん、私たちは自分が病気であり、罪びとであることを感じないでしょう。 事実、医者であるイエスは、私たちにそれを判断して啓示するのが役割です。 キリストの聖性は私たちに赦しの道を指し示しながら、私たちはキリスト自身の聖性を自分の衣として着るようにと招かれています。
ペトロと彼の仲間は何も獲らずに夜通し非常に苦労しました。 しかし、この世の光であるイエスは沖に連れて行くために彼らに近づいた時、ペトロとその仲間は彼らの抱いた希望を遥かに越えて満たされたでしょう。 このようにイエスが私たちに近いものとなるのは、私たちが罪の暗闇から命の光へと、また、外面的な生き方から神の深さの神秘の方へ移させるためです。
ですから、沈黙、祈り、聖書の黙想によって、神と出会うことを学びましょう。 私たちの罪ではなく、私たちのうちに置かれている信仰をよく見て育てましょう。 そうしたらきっと、神の呼びかけを聞くことになり、そして次のように答えるでしょう。 「主よ、私はここにおります。あなたの僕として私を遣わしてください」と。 その時、預言者イザヤのように私たちも次のように宣言することが出来るでしょう。 「わたしの目は生きる神を仰ぎ見た、しかし、わたしはそれを証しするために、まだ生きている」と。 アーメン。
年間第10主日C年 2013年6月9日 グイノ・ジェラール神父
列王記上17,17−24 ガラテ1,11−19 ルカ7,11−17
「主がエリア預言者の祈りを聞いた」と最初の朗読が述べています。 神はエリアの祈りよりもきっと唯一の子を失ったやもめの嘆きを聞いたに違いありません。 確かに聖書全体は、神が惨めな人の嘆きを聞くことを繰り返して教えています。 父、子、聖霊である神は、泣いている人と嘆き悲しんでいる人の慰め主です。 死と苦しみの暗闇に沈んでいるこの世の中で、神は、慰め、励まし、そして命の光をもたらすお方です。
今日の福音は、イエスに従って幸せに歩む群衆を、先ず、私たちに見せます。 この群衆は、傍にいて生き生きとしているイエスを伴っているので、とても幸せです。 しかし福音はすぐ後で、イエスを迎える他の群衆を見せようとします。 この群衆は寂しさのあまりに不幸を酷く感じています。 何故なら、死の陰がこの群衆を包もうとしているからです。 この群衆はとても興奮して、自分の子を失って、絶望のどん底に沈んでいるやもめに対して、自分の苦しみを表しています。 死が既に彼女の夫を奪った上に、また更に、彼女から唯一の子、独り息子をも奪いました。 群衆の愛情に囲まれていても、この未亡人は孤独を酷く感じています。
私たち自身も度々喜びと涙の間で引っ張られています。 勿論イエスが生きておられる方として、私たちと共にいる事を私たちは信じています。 そしてイエスの復活の力が、私たちの試練の涙を喜びの涙に変化させることを強く望んでいます。
町の門で泣いているやもめを通して、イエスはあらかじめ自分の母マリアを見分けました。 確かに、まもなくエルサレムの城壁の外でやもめであるマリアは、自分の唯一の子の死のために痛恨の涙を流すでしょう。 そのような理由で、興奮したイエスは近寄って棺に手を触れながら「若者よ、あなたに言う。 起きなさい。」と言いました。 直ぐに死人は起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは息子をその母親に返しました。 この奇跡を見た若者の母と二つの群衆(やもめを囲んでいる群衆とイエスを囲んでいる群衆)は、恐れを抱きました。 しかしあっという間にイエスを囲んでいる皆が神を賛美しながら 、言い表せない喜びを現しました。 それは生きる喜びでした。
病気のせいで麻痺したり、老化のせいで身体的に不自由さを感じるようになったり、或いは人生の中で絶望の底にいる時に、もしイエスはとても近いと信じるなら、この様な試練にもかかわらず、私たちも生きる喜びを味わうことが出来るのです。 きっと死ぬ時まで私たちは試練に合うでしょう。 しかし信じるなら、キリストの平和と喜びが私たちの心から決して離れる事はありません。 むしろキリストの平和と喜びが、私たちの弱い体にも拘らず全てを耐え忍ぶ力と忍耐を与えるでしょう。
イエスが私たちの傍にいると信じるなら、いくら床に臥せていても、私たちは内面的に立ち上がることが出来ます。 しかし自分の心の内にキリストの思いがなければ、身体的に立つことが出来ても、実際には、死が忍び寄って来て、私たちの内に滅びの業が始まっているのです。 救い、復活するイエスの愛が絶えず私たちに与えられているのは、私たちが人生の試練を乗り越えるためです。 しかしこの無償で寛大な愛を、人は信仰をもって受けるのか、無関心で捨てるのか、その選択はいつも自由です。
生涯に渡ってイエスは度々「泣かないで !」また「心を騒がせるな!」と言いました。 今日もまた、イエスはラザロの墓の前でマルタとマリアに言われたことを私たちに繰り返します。「泣かないで、私は復活であり命である、私を信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11,25-26)と。
よみがえったやもめの息子の前で「人々は皆恐れをいだき、神を賛美しました。」 私たちは皆イエスが生きていることを信じ、イエスの命によって生きています。 しかしこの永遠の命の賜物のために、私たちは十分に神に感謝しているでしょうか。 生きる神の賜物であるイエスと共に、私たちは信仰の内に歩むチャンスを受け取りました。 父なる神は私たちの心の内に大きな希望を注がれたので、恐れずにイエスと共に死の門を通り過ぎて、真の命に入ることが出来ます。 イエスによって救われた全人類は、永遠の喜びの方へ歩み続けています。 永遠の命の王国の中で「神は自ら私たちと共にいて、その神となり、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21,4)。 喜びをもって、イエスに従いながら 感謝の内に真の命の王国を目指して歩み続けましょう。 アーメン
年間第11主日 C年 2013年6月16日 グイノ・ジェラール神父
2サムエル12,7-10,13 ガラテ2,16、19-21 ルカ7,16-8,3
今日の福音を聞く度に、罪の女が私たちの関心を引くので、私たちはイエスを招いたシモンを見ることを忘れています。 彼はファリサイ人であり、正しい模範的な人です。 シモンは不思議な奇跡を行っているイエスが、本当に預言者であるかどうかを確かめたいのです。 しかしイエスが罪の女として知られている婦人が、自分の直ぐそばに近寄ることを許されたのを見て、シモンは失望しました。
ファリサイ人のシモンは、この女を見てイエスが自分のように考え、行うように望みました。 自分の足元で泣いている婦人を追い出さないイエスの態度は、シモンを躓かせました。 そう言う訳で、私たちが自分についても、他の人々に対しても自分の見かたを変えるようにと、今日の福音は私たち皆を招きます。 確かに私たちはあっと言う間に人を裁きますが、正しいことであっても人の非難を受けることを私たちは好みません。 他者の過ちを厳しく咎めることは簡単ですが、自分が罪びとであることを認めるのは苦しい決定です。 とにかく、非難する人も、非難されている人も、有罪であろうと、無罪であろうと私たちは皆、神の前で罪びとです。
ファリサイ人のシモンは結局、自分の心の中でつぶやく、偏見を育てる私たち皆です。 口で言葉を出さなくても、頻繁(ひんぱん)に自分の接する人に対して 私たちは頭の中で愛徳から遠く離れている辛辣(しんらつ)な考えを作り出す傾向を持っています。 イエスはこの考えをよく聞き分けます。 私たちがこの態度を改めないなら、きっと、イエスは、いつかその計りで私たちを咎めるでしょう。 ですから憐れみ深い眼差しと優しさで満たされた言葉と建設的な考えの恵みを絶えず神に乞い求めましょう。
妻に示すべき愛について話した預言者ナタンのお蔭で、ダビデ王は自分の罪を認識し、そして悔い改めます。 同じように、他人に示すべき愛と親切さについて話したイエスのお蔭で、ファリサイ人のシモンは、自分の固い偏見と外面的に人を批判する傾きを直すことが出来ました。 一体、悪い傾きから私たちを立ち直らせることが出来る兄弟姉妹、あるいは非難と偏見から私たちを守る聖書の言葉をどこに見つけるでしょうか? 人間として、且つキリスト者として「私たちを愛し、私たちのために身を捧げられたキリストに対する信仰を生きるためには」(ガラテ2,20)咎めや非難や裁きではなく、赦しや謙遜や親切さを神から要求されています。 真心から願えば、イエスは私たちの信仰生活を妨げるすべての物事から解放します。 罪深い女は 自分のやり方でその解放を願いました。 イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言って、彼女を解放しました。
律法学者とファリサイ派の人々はイエスが「罪びとの仲間だ」と強く非難しました。 実に、イエスは世の終わりまで罪びとの仲間です。 勿論イエスは罪と戦い、裁きますが、いつも罪びとを赦し、正しい者とします。 ですから、私たちは自分たちよりも罪びとだと思われる人を非難する前に,罪びとに示されているキリストの態度を思い起こさなければなりません。 罪びとがご自分に触れることをイエスはいつも許します。 しかし私たちは、自分を非難する人々や自分が批判する人々と全く関わらないように、彼らを避けているのではないでしょうか? それは私たちがまだ愛の完成に辿り着いていない明白な証拠です。 イエスは急いで私たちを救うことも必要不可欠です。 そう言う訳で、「裁きはただ神のものだ」と聖書は教えています。 人を裁く人は間違いなく自分の心の中でサタンにドアを開けているのです。
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。 憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2,13)と聖ヤコブは手紙の中で書きました。 ですから互いを互いに裁いたり、非難したりし合うよりも、憐れみ深い人となるために努力しましょう。 特に、神の約束に従って「私たちの石の心が、赦すことや愛することの出来る肉の心となるように」(エゼキエル36,26)神に切に願いましょう。 「愛する者は神を知っている」(ヨハネ4,7)と聖ヨハネは断言しました。 お互いの為に祈り合うことによって、自分たちの心に神への愛と隣人への愛を支え、保ちましょう。 アーメン。
年間第12主日 C年 2013年6月23日 グイノ・ジェラール神父
ザカリア12,10-11、13,1 ガラテア3,26-29 ルカ9,18-24
「イエスがひとりで祈っておられた」と、聖ルカが説明しています。 私たちが祈っている時に度々気が散るという体験をしています。 イエスは突然、気晴らしをして、祈ることを忘れて、人々が自分に対してどう思っているか、何を言っているかについて弟子たちに尋ねます。 おそらく、望んだ答えを受けてからイエスはもう一度長く祈ったでしょう。 しかし、ルカはこれについて何も書きませんでした。 罪の他はイエスは、全てに於いて私たちと同じ人間なので、祈っている時に気が散ることは当然です。 彼は誘惑を受け、いらだち、叫び、腹を立て、また泣き、人の苦しみの前で興奮し、さらに喜びを表す人です。
たとえば、イエスは教える時、人々と周りで行われている出来事を見るから、その時に自分が発見した事と自分の教えを合わせる人です。 ルカの福音書の20章と21章を見れば、イエスは皇帝に納める税金、体の復活、ダビデ王の子孫の問題、律法学者の偽善、やもめの施しとエルサレムの破壊について次々と話します。 このようにしてイエスは、人々を外面的な判断から内面的な見方へと移させようとします。 イエスにとって大切なことは皇帝に納める税金ではなく、むしろ神に返すべきものです。 イエスにとっては人生の目的は結婚することや子孫を持つことではなく、神の命に生きることです。 イエスにとって偽りの立派な姿で人々をだますことよりも正直な生き方によって神の心を喜ばせることが必要です。 いくら神殿の石が美しいものと見られていても、神の住まいが商売の場と強盗の巣になっていたのでは、どうしてここで神を見つけることができるでしょうか、とイエスが教えています。
イエスに従うこと、或いは十字架を背負うこと、それは神の眼差しのもとに真理の内に生きることを意味します。 その為に弟子になりたい人は、自分を捨て絶えず回心しながら聖霊の助けと信仰の兄弟姉妹の祈りの支えを願わなければなりません。 私たちが外面的に出来事を見るなら、イエスはお金に対する欲望と裏切りのせいでユダによって引き渡されました。 しかし、内面的にこの出来事を見れば、イエスは自分で決めた時に、愛の為に自分自身を人々の手に引き渡しました。 このように私たちが見るのは、十字架がもたらす苦しみではなく、むしろこの十字架が実現させる愛を見なければなりません。 キリストの弟子となることはイエスのように苦しむことではなく、イエスが私たちを愛したように愛することです。 そういう訳で預言者ザカリアと聖ヨハネも私たちに対する神の愛を発見するために、十字架に付けられたイエスを仰ぎ見ることを強く勧めています。
信仰によってキリストに結ばれている私たちは、神と隣人への愛を具体化する為に招かれています。 イエスが自分に対して人々がどう思っているかと尋ねた目的は、結局、自分に委ねられた使命の方が、自分自身よりも大切だと言うことを弟子たちに教える為です。 即ち、世の救いの為にメシアとしてイエスは苦しみを受けて死に、復活しなければならないと言う使命です。 世の救いという使命を一緒に果たすように、イエスは私たちが彼の後に従うように誘います。 大切なことは、イエスは誰であるかを言うことではなく、むしろ彼の後に従って歩むことを決めることです。 言い換えれば「わたしを何者だと言うのか」と尋ねるイエスに対する本当の答えは、彼に従って歩むことを決めることです。
ですから「自分の命を失うことは」決して死ぬことを意味していません。 返って自分の人生の全ての瞬間を愛に生きることです。 十字架の上で、或いは日常生活の繰り返しの中で、愛によって生きること、愛によって命を失うことこそ、イエスが私たちを誘う貴重な使命です。 「洗礼を受けてキリストに結ばれたわたしたちは皆、キリストを着ているから」(ガラテヤ3,27)世の救いの協力者となっています。 それ故、私たちは皆キリストに従いながら自分の命を失う覚悟が必要です。 即ち、イエスが私たちを愛したように私たちも愛しましょう。 アーメン。
トップページに戻る